……ところで。
哀と、愛は、読みが同じだけじゃないだと思う。
この二つに"涙"は付き物……背中合わせの感情で、きっとこの景色に終点はない。
愛は欲しいものだけど、哀は消え去って欲しい感情だ。
だって、何が悲しいのかさえ忘れてしまいそうになったらそれはきっと、何もかもに絶望した感情だと思うから。いくつもの温もりと優しさを紡いでも、きっと辿り着けない世界はあるから。哀はきっと求めるものでも、与えるものでもなくて……人から何かを奪うものなんだって。
僕は、あの夏の終わり頃。蝶が金木犀に口付けをするその時に、初恋の彼女にそう告げようと学校の階段を昇る。
屋上へと繋がる道は果てしないように見えて、近かった。
屋上に着き、僕の身体を攫うような風が吹いた後……黒髪を揺らす美貌がこちらに微笑んだ。
彼女は美人だけれど、控え目な性格だった。遠慮がちで、常に人のことを考えられるけれど、遠慮な態度が災いしてちょっと視野が狭かったりする。
「こんにちは。今日は夕陽が綺麗ね」
……僕にはどちらが綺麗なのかなんて、甲乙つけがたいものだが。僕は、呆気に取られた表情から、生真面目な表情に切り替える。
「……なぁ」
「なに?」
「……こんなことを訊いてはいけないのは、分かってる、んだけど」
我ながら歯切れの悪い。未だに、僕は逡巡する。だってそれは今の彼女の"状況"のせいにあった。
彼女は"ずっと付き合っていた幼馴染に振られた"。
そして、"親から歪んだ愛情を向けられ、虐待し続けられている"。
前者は友人から。後者はその幼馴染に詰問した。
僕の想像が及ばない程の傷跡。その火傷は次々と、彼女の心を延焼しているようで無力である僕は僕に反逆し、ずっと片思いをしていた彼女に話しかける決意をした。
けれど、これじゃあ……。
「私の今について、聞きたいんでしょ?」
淡々と彼女の唇から告げられた言葉に、無言で頷く。
「どうして、そこまで自分を抑えるんだ?」
彼女は屋上の端に取り付けられた低いフェンスを握る。
「君は、君を曝け出せばいい。悲しいなら涙を誤魔化さなくていい。だって、何が哀しいのかさえ分からなくなったら、それは……」
何もかもに絶望したってことだろ? そう言い切る前に、彼女は美しい朱色の頬を赤らめいじらしく笑う。
「それ、貴方に関係ある?」
……。
「これは私個人の問題で、この哀しみも、辛さも、私だけのもの。優しさや温もりを繋いでも、見えない世界なんていくらでもあるんだから」
彼女の瞳の奥には諦観が湛えられていた。それもそうだ。彼女の昔からの付き合いの親友も言っていた。
『あの子はもう、私たち人間が干渉しちゃいけない。人間を恨んで、可能性を諦めきってる』
隔てのない彼女の性格や、優しさは非常にクラスの中でも学年でも人気があった。それは、自分の親のような歪んだ動機ではなく、ただ自分のような寂しい境遇を辿る人間を増やさない為の静かな優しさなんだと思う。
彼女はフェンスを乗り越え、そして再び和かにこちらへと微笑んだ。
「……流す涙が枯れてしまったら、これ以上何を犠牲にすればいいの? もう何も分からないから、希死念慮があるんじゃない」
違うよ。そうじゃない。そうじゃないんだ。
「哀も愛も大嫌い。どっちもいつか私を嫌ってそっぽを向く。この世界だって」
ーーー大嫌い。
消え入るような、言葉が屋上の沈黙を破った瞬間、僕は懸命に駆け抜けた。
諦観する彼女に向ける視線は非難かもしれないし、咎めるようなものなのかもしれない。
「僕がッ、いいたいのはッ!」
けれど親友である彼女は言った。
『哀しみの哀はきっと愛の裏返しだと思う。きっとあの子は、本物の愛が欲しかった。愛情を求めてた。だから、何もできなかった私の贖罪は愛を与えること。お願い、非力な私からで申し訳ないけれど……』
仰向けのまま倒れるように宙に堕ちる彼女。僕は駆け寄り、精一杯の否定を込めて力無く重力に身を任せる彼女の手を握る。
『あの子を、連れ戻してきて』
その決然とした一言が、僕を現実に引き戻した。
「君も僕も、この世界でやり残した事がたくさんあるはずだ! 僕は君の親友と約束した。必ず、何があっても、連れ戻すって!」
哀も、愛も、結局は彼女から全てを奪った。
なら次にやるべきは……。
「リスタートだ! 君には、報われる権利があるッ。温もりと優しさを紡いでも辿り着けない世界はあるけれど、涙をさらってしまう程の世界があるのなら! 君はその世界に辿り着く権利がある人間なんだから!」
彼女の瞳から涙が溢れる。それはただの哀なんかじゃない。僕の愛を受けた、精一杯の彼女からの哀のお返しだ。
だから、返すことに精一杯で。
「ぐぬぬ!! ぁあぁ!!」
自分のことを置き去りで考え続けて、彼女がフェンスを握った瞬間。
僕は頭から宙に浮かび、そのまま、堕ちていた。
最期に見えたのは、必死に手を伸ばす彼女と、蕾を開いた金木犀から飛び立つ……。
一羽の蝶だったーーーーーー。