回帰現象

なんか色々書いてます。

闇を裂く、剣狼


 時代は一八八八年。秋の温もりが緩やかに冬の寒さへと移りゆく十月の中頃。

 排煙覆う鈍色の空に鳴り響くのは、大都市ロンドンの発展の生命線たる巨大な機械の駆動音。

 横一列に並ぶ煙突からは黒煙が舞い上がり、そんな黒煙を切り裂くようにして複雑な装飾の施された飛行船が大空をゆっくりと駆ける。

 著しい発展を見せた蒸気機関が生み出す排煙のせいで微雪のように舞い落ちる真っ白な炭のようなモノ。

 大して人体に影響を及ぼすほどの害はない。

 しかし今だ雪が降り積もる時期でもないというのに、足元を見れば白い野が広がっていることには些か違和感は拭いきれないだろう。

 そんな地においても英国市民の営みは不変だ。

 華々しいシティ・オブ・ロンドンの大通りでは人々は忙しくその足取りを交差させる。

 その脇からけたたましい駆動音をあげる蒸気馬が駆け抜け、隔てるように建つ建築物の向こう側には黒煙をあげて線路を走る蒸気機関車 ──── 時代錯誤的テクノロジーが正に混沌を描いている。

 だが、それはロンドンが魅せる繁栄の真骨頂、そしていつも通りの在り方なのである。


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 天を衝くような高層建築物が林立とする大都市ロンドン。

 そんな圧倒される風景の中に、こじんまりとした飾り気のない三階建てのビルが目立たぬようにポツンと一つ。

 その三階にはA detective officeと書かれた看板が扉の前に立っている。


 探偵事務所。

 なのだが、その部屋の中から聞こえるのは何故か乱れた呼吸音だった。

 声色は若い男性……いや青年くらいのもので、どこか切迫した様子も見える。

 床にはメスのような凶器や資料がばら撒かれていて雑然としていた。不思議なほどに剣呑な空気感を醸し出している。 


 歯を食いしばり、血眼になりながらも、冷静にならなければと青年は己を落ち着かせていた。


「俺は、おめェを絶対許さねェ……!」

「許さなくてもいいさ。君のおかげで俺も動きやすいんだからな」


 青年の怒りを煽るように、探偵らしき男は事務机でスラスラとこの状況においてもペンを滑らせる。


「こんな利用のされ方は本位じゃねェし、俺としては屈辱だ。本来ならおめェがこの立ち位置にいなきゃいけねェのにな」

「なにかと思えば御託を並べる。俺はこれに忙しいんだ、君に付き合うほど暇ではない」

「おめェ……」

「それにしても君は不思議なやつだ」

「何がだ?」


 探偵らしき男はくつくつと笑う。

 もはやどちらが悪役なのか分からない。そのような水準まで男の口調には酷薄さが満ちる。

 人情など、等に捨てたと言わんばかりに。

 青年は敵意を込めた瞳を持って睨みつけ、余裕ぶる男は興味深そうに答えた……。


「当たり前だろう。機械が万能と謳われる世界で、人力とは……やはり君の感性はこの時代の発展に毒された常人とは乖離しているな」


 青年が必死になって漕いでいるのは、人力で発電できる自転車だった。

 その裏には機械があり98と表示されている。

 探偵の請負人である青年は、管理が下手くそな探偵に代わりこうして光熱費を賄っているのだ。報酬もそれなりに増やしてもらっているらしいが、やはり嫌味は絶えないようで……。


「ったく、その万能とやらの甘言はさぞ耳心地いいんだろうなァ? えェ?」

「言葉だけなら蕩けそうな勢いだが、耳心地に関してはノーコメントだ。情報の質量だけで酔う」

「カカッ、有名な探偵家すらもそのキレる頭を除けばただの人間ってわけか。おめェは繊細だなグレイス」


 青年は白い牙のような歯を見せて溌剌に笑う。

 一方のグレイスと呼ばれた探偵の男は、不服そうに眉に皺を寄せては後頭部にまとめあげていた髪をほどく。 


「"剣狼"と謳われる奴の冗談にしては質が悪いな、オル・ゼキア。俺の髪はまだそこまで薄くないはずだ」

「おめェ……本当に探偵かよ?」


 洒脱な受け流し、とは到底言い切れず。

 それでも涼しげな顔つきで資料に再びペンを走らせるグレイスへと、思わず複雑な眼差しを送るオル。

 天職と言い張る割に推理力の無さを露呈させていく間抜けなのか、意図なのか判然としない猜疑心が半割を占めているが。

 オルは人力自転車からおりて、近くのソファに背を預けては体勢を崩す。


「そういえば、オル。今朝の新聞は読んだか?」


 問いかけられたオルは、不思議と肩を竦めては語調も鋭くなった。


「あァ? 俺が目で文字を追うのが嫌いなことはおめェが一番理解してるんだろうがよ」

「知っている。先程の質の悪い冗談のお返しだ」

「……おめェの誤認の方がよっぽど質悪いっつーの」


 意趣返し、にしては理不尽もいいところだ。

 しかし小言一つで抑えられるのは強靭な精神力か、はたまた心が諦観しきっているのか。

 どちらにせよ事務机の目の前のソファに座るせいで、爽やかな表情で仕事をする彼が見えてしまうのは癪に触るらしい。


「新聞は読んでおけ。ある程度は自分の為になる」


 グレイスはそう言いながら襟を捲ると、筋肉質な腕が露出する。

 鍛え上げ方には差異はあるものの、生まれ持った体格に関してはどうしようもないことで、オルも顔を顰めながらソファで軽く地団駄を踏んでいた。


「話変わるけどよ、おめェその鍛え方なら自衛くらいできるだろ。なんで請負人である俺を雇うんだァ?」


 全身全霊の嫌味を口調に込めた発問が飛ぶ。


「俺は探偵だぞ。そのような荒事は畑違いだ」


 オルの言い分にも一理ある。

 グレイスは武術を嗜んでいるのか、背筋もよく露出している腕には無駄な肉は見当たらない。

 対照的にオルは引き締まり方に遜色はなくとも、その瞳が数多の死地を乗り越えた事を雄弁に語る。

 明瞭なのは実力は測れずとも、見た目だけならまず軽侮はできないだろう。


「武術に一家言もつとは言っても齧った程度の人間は、飽くまで興味本位までの線引きであって継続する意志はそこにない。俺は、一を極めるより百を齧る方が好きだ」

「器用貧乏ってやつかい。そいつぁ確かに、なんでもかんでも完璧にこなす機械様に縋りたくなる気持ちも分からなくはねェな」


 カカッ、と独特な笑いと共に心無い揶揄が飛ぶ。

 しかしながらグレイスは、髪をいじられたと誤認した時よりも心穏やかな表情だ。

 オルもそんな彼から顔を逸らしてはため息を吐く。


「ンで……さっき言ってた新聞ってのはなんだ。お世話になってる娼婦でも殺されたか?」

「ふむ。ほぼ半分正解だ。やはり素質があるな」

「適当と直感を素質扱いされても困るけどナ」


 一通り記し終わったグレイスはペンを置き、ゆっくりと腕を組むと顔付きも深刻な色へと変わる。


「ホワイト・チャペル地区で娼婦が殺された。かなり無差別らしく、既に二人殺されたが娼婦以外の接点は見受けられないとのことだ」

「快楽殺人鬼の類かねェ」

「あぁ……そうなった場合、迅速かつ適切な対応と姿勢で挑まなければ被害は拡大するだろう」

「ンで? 俺らのもとにその依頼が回ってきた、とでも言いたいのか?」

 
 コクリと神妙にグレイスは頷いた。

 するとオルは目を細めながらソファから立ち上がると、回転式機械電話機の元へと歩む。

 
「おい、何処へ掛ける気だ?」

「アイツのところだよ。おめェがまた何だかんだで捲し立てられて、ふっかけられたんじゃねーかっていう憶測だ」

「あぁ、アイツか」

 
 オルは内心、穏やかではない。

 ヤケにクランクハンドルの回し方が荒いのは、グレイスの折り紙つきな無神経さが原因だろう。

 回し終わると乱暴に受話器を取った。

 
「オイ、おめェはそれでも奴の助手か?」

 
 初っ端、受話器の向こう側に飛んだ言葉は著しく人情味を欠いていた。

 流石のグレイスも想像はできていたが、少し呆れているようだ。

 
「あァ!? 俺らが適任ってのはおめェらの常套句って知ってるんだからなァ!?」

「……」

「は、はァ? おめェらそんな理由で丸投げしやがったのか?」

「……」

「あのなァ、俺も請負人なんだよ。こいつを守らなきゃいけねェし、いつ"ディザーニア"が牙を剥くかも分からねェ時代なんだぞ?」

「……」

「そうかよ。勝手にしろ」

 
 受話器を置くと今度は辛気臭そうに、整った黒髪を荒っぽく掻いた。

 
「どうだった?」

「興味はないから回せ、って理由だとよ。おめェもよく許諾したな。俺だったらブチギレてるぞ」

 
 グレイスに振り返った顔には、不快か困惑か。

 色んな感情が張り付いた顔からは、もはやどこからが本心なのかといった具合に隙間がない。

 
「……割りを食うのはいつだって俺らみたいな末端だ。例え有名とは言っても垢抜けしてる訳じゃない」

「そもそも、俺ら凡庸からすれば垢は抜けるものではなくて取り出すもンだ。だからこそ凡庸と天才とじゃ観ている世界は違うンだよ」

 
 オルは腕を組みながら壁に背を預けると、ポツリとそんな言葉を零す。

 
「その通りだな。さて、そろそろ話を戻すぞ」

「っていうかよ、依頼ってことなら警察に情報回されてるハズなんじゃねェのか?」

「あぁ、既に一人目が殺された後に新聞社へと手紙が届いている。名前は"切り裂きジャック"、Dear Bossという書き出しで始まっているらしい」

「Dear Boss……親愛なるボスへ、か。内容は一体なんだったんだァ?」

「要約すれば、自分は警察に絶対捕まらない。犯行はまだまだ続くと予告する挑発的なものだ。次に襲う娼婦の名前も記入済みという形でな」

 
 グレイスは淡々と伝えるが、腕組みをほどいて軽く小指で机を小突く仕草には剣呑さがこもる。

 
「記入済み? なら数人くらいの手練れの警察にでも守らせればよかったじゃねェか」

「そうしたよ。娼婦ごと殺されたがね。それも首以外の外傷は何一つないくらいの巧妙さで」

「……へェ? 俺をおめェの剣として雇った意義が段々と分かってきた気がするぜ」

 
 オルはニヤリと獣性こもる口角を吊り上げる。

 手練れの警察すらも返り討ちにされる殺人の手腕。

 その資質を聞くだけでも、ゾクゾクと彼の血が沸騰していく。

 
「そういうことだ。現場の調査をする為にホワイト・チャペル地区にも向かわなければならない」

 
 グレイスはハンガーに掛けていたコートを羽織る。

 夜を凝集したような黒さだ。

 
「行くぞ、我が剣よ」

「あァ」

 
 血の味に飢える"剣狼"と呼ばれた青年を引き連れ、探偵は事務室を後にする。

 待ち受けるのは鬼か邪か。

 光を湛える白き鐘の音が、大都市ロンドンに響き渡っていく。

 だが、それはただの偶然かそれとも兆しか。

 平和を象徴する白き鳩は落ち、空を席巻する黒き鳩はまるでロンドンの闇を見下げるように翼を仰ぐ。

 
 あの白い鐘が黒色の翼で染まるのを、ロンドン市民はただ憂うことしか出来なかった。